依存形成性薬物アルコール
〜 お酒を飲むのをやめて7年の歩みと体験談 〜
薬局 島袋 澄子



平成7年9月頃と記憶しています。
アルコール依存症進行プロセス
 当院の外来に出張先から帰った夫は体の異変(眩暈・吐き気・胃痛)に気付き、受診し検査を受けました。その時のドクターは伊佐勉先生でした。検査結果は特に異常はありませんでした。ところが夫は突然立って最敬礼をし「お酒が止められる薬をください。僕は酒を飲み過ぎていつも妻に迷惑をかけています。申しわけありません。」と伊佐先生に謝ったのです。あまりのおかしさに外来の看護婦さん・伊佐先生そして私は大笑いしたものです。午前10時になっているのに酔っ払っていたのです。

 それでも、伊佐先生はニコニコしながら対応して下さいました。次は何を言い出すかと思うと私はこの場から逃げ出したい衝動に駆られていました。夫は又も「先生、酒が止められる薬をください。」と言うのです。先生は又あのやさしい顔でニコニコしながら「この病院では処方できないのでお酒がやめたいのでしたら宮里病院に行かれたら良いですよ。」と言われ、この日の外来受診は終わりました。夫が健康診断以外で病院にきたのは初めてのことでした。この日が「問題飲酒」を止めるきっかけになりました。

夫が27歳の頃、青年会長(沖縄市知花)時代、飲みたくもない酒を無理やり飲まされたのが最初の酒との出会いだったそうです。40代前半までは職場の歓迎会・忘年会・区の集まりなど「機会飲酒」程度でした。家ではビール1杯さえ飲まない人でした。45歳を過ぎた頃から2〜3ヶ月に1回しか飲まないのに飲んだら、どの様にして家に帰ったかわからない程酔って運転はする、午前2時〜3時の帰宅は当たり前、飲むための借金はする、借金の尻拭いは私。幾度となく繰り返すうちに私は夫が事故にでも遭って死ねばいいのにと思うようになっていました。その頃の私は、自分が死にたいと思う時もあり、私は身も心も疲れ切っていたのです。

 当時、夫は管理職にあり、飲むと風邪と偽り仕事を休み、腰痛・頭痛・気分不良を理由に遅刻欠勤を平気でしては、酔いが覚めるとそんな自分を責めながらも、やめられない酒に苦しんでいたようです。(平成6年53歳頃のことです。)

 平成7年10月、自ら伊佐先生の言葉を思い出し、宮里病院の外来受診でアルコール依存症の診断を受けました。断酒会があることも知りました。つまり世でいう『アル中』です。私も夫も耳を疑いました。スポーツも現役、仕事も現役、夫がアル中なら酒を飲んでいる人は皆アルコール依存症だと思いました。納得いかずアルコール専門病棟のある糸満清明病院へも行きました。そこでも診断結果は同じアルコール依存症でした。その頃の私はアル中に対する偏見が強くとてもショックで認められませんでした。

 私のアル中に対するイメージは世捨て人。例えば、汚い服を着て酒ビン片手に朝から仕事もせず家族もなくヨレヨレの浮浪者。人間として生きることを止めた人。こう言う状態にある人が私のアル中イメージでした。認める事はできない。でも、酒を飲むことをやめてもらいたい複雑な気持ちの中、夫と私は断酒会通いを始めました。

 糸満清明病院の外来受診時「断酒会で酒をやめられた方はたくさんいます。断酒会へ行って見てください」と言われたドクターの言葉を信じ夫を説得し毎週水曜日夜7時〜9時北部保険所の会議室で行われている断酒例会に恐々参加してみました。私の気持は不安と期待で押しつぶされそうになる位複雑でした。そんな私達を見てすでにお酒を止めている断酒会員が笑顔で迎えてくれました。

 いよいよ例会が始まりました。一人一人自己紹介が始まり過去の失敗談、暴言、暴力、借金など家族にかけた迷惑や職場にかけた迷惑などが語られていきました。当時7、8人くらいのグループでした(現在は30人前後)

 私はそんな一人一人の体験談を聞いている内に私以外にもつらい思いをして生きてきた家族がいた事を知りそれだけでも気持ちが楽になっていました。

 私と同じ体験談を聞いていた夫は私とは違い、酒の飲み方、例えば毎日飲んでいた、朝から飲んでいた、病院の入退院を繰り返した、病室前の消毒用エタノールまで飲んだ、二日酔いの翌日は病院の外来で点滴を打って飲める体にしてもらい夜は又飲んだ、などの体験談を聞き自分とは違うやはり自分はアル中ではない、ちょっと飲みすぎただけだから減らせばいいんだと思ったそうです。私も又一方では皆さんと夫は違う、やはりアルコール依存症ではないかも知れないと思いました。

 それでも又水曜日になると断酒例会に向かう私達夫婦がいました。気がつくと確かに夫の酒の飲み方に変化がありました。若い時と同じ機会飲酒になり飲んでも夜11時〜12時迄には帰るようになりました。



参照:「アルコールの害
参照:「アルコール依存症・薬物依存症」